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The flower that blooms in adversity is the rarest and most beautiful of all.

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インプットからアウトプットへ

来週火曜日のゼミ発表を控えて、
最近パンク寸前、というかもはや水蒸気爆発は起こしている状態(^^)←

なにもまとまらない。
何から書いていいかわからない。
そんな日々が続いていました。


色んな人が色んなことを言っていて、
なんだか似たり寄ったりで
頭の悪い私にはその主張の違いとかを一々見抜けるだけの能力もなくて。
研究者としては最悪のパターンなのかもwww

でも気づきました。

もうインプットの時間は終わり。
次はアウトプットをする段に来たんだなぁと。
幸い、研究書には「引用文献」や「被引用文献」がある。
これを手繰って、自分の系譜にする。
そうすれば、溢れかえる様々な言葉の定義に惑わされず、
自分のキーワードにした言葉の範囲でまとめることができる。
もし、そのまとめた範囲内で違和感があったり、統一感が無かった時に
外の意見を参考にすることも可能である「だけ」だ。


これも、きっと批判的思考なのかも。



入れて入れて混沌とした時代はこれで終わり。

井上尚美、トゥールミン関連の論文に集中しよう。

反論に気づいたらそれを自分の論で埋めようとするのではなく、
それを認めたうえで、自分の研究の立ち位置を見極めよう。
こんな当たり前のことが、当たり前にできるようになるのには時間がかかるんだねw

がんばりましょう^^
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研究背景を・・・

「読書を伴う協働学習」とするか「協働学習」とするかで非常に悩む。


協働学習に関する研究はずっと読書に焦点をあててきたから、
読書以外を含むような言及はあんまりできないと思うんだよね。
ピア・レスポンスの話も関わらないではないけど。


だけど、今回のスポットライトは「学習者の議論」だから、
協働学習に細かく触れてしまうとどこにスポットが当たってるのかわかりにくくなっちゃう。
読書を入れたい理由は、結局学習者は本とも対話をしているからなわけで、
分析の過程で学習者同士の議論過程の中に、本との相互交渉が含まれていることが示されれば、
1.読者間でもwarrantの共有が必要
2.本-読者間でもwarrantの共有が必要
という話ができて、2は読者のもつwarrantの違いによって多様性が認められるから、
warrantの出現によって対本、対他者との議論が深まる傾向にあると考察できて、
warrantを引き出すには批判的思考の考え方が必要だから、
言語教育/文化教育の側面だけでなく、
読解授業では思考力の育成にもなるとつなげたかったのだけど・・・



いかんせん、文章構成力が弱くて(´・ω・`)


でもまだ道は見失ってない。
大丈夫。

5月の初め

院に入って早1年が過ぎ。
猛ダッシュとグッタリ休憩を半分ずつやってプラマイゼロのGWを過ごしました( ´∀`)
ほんっと、心と体って繋がってんのねっていう連休でした。


ぐったりの半分、仲の良い人たち(当人たちは初対面)と飲み会をしました。
昼からビールで三軒はしご←
頭いたくなるまで飲んでさ←
その日感じたのは、人に会いに行くのが好きだし、
その日とたちが話してることを聞くのが好きだと言うこと。

最近気になっている坂爪さん曰、
『知識だけで話される内容は冷たさを感じるけど、その人自身の実体験には血が通っている(体温を感じる)。』
その言葉をまっすぐ感じた一日だったように思います。


私はずーっと学校から出たことなくて、
研究したいことから研究し始めた、
どちらかと言えば頭でっかちタイプ。
最近、その方向に限界を感じています。

何せ頭に入らない!
実感のわかないものはちょっとも頭に入らないし、
人に伝えたくても熱がこもらない!!!!



その点、私の友達は自分の足で出掛けて、
自分の頭で考えて、
自分の言葉で人にものを伝えられるすごい人たちばかり。

生きた感覚を与えられるんです。



だからなのか、人間ってそういうものなのかわかりませんが、
ずーっと部屋にこもってパソコンを見つめてるより、
人と飲み会をしてる時の方が圧倒的に脳への刺激があります。


私はどんなことを人に伝えられてるんだろうか。
私が熱をこめて人に伝えられることって、なんなんだろ。
きっとなんか、あるんだよね( ´∀`)←
もっともっと、いろんな吸収をしたい!
そんな5月の初めです。

教育者としての心構え

子どもに向かう心構えではなく、
今回は「一教育者」という大前提としての心構えについて思ったこと。

機能のIBの本の続きです。
第4章では編者である大迫先生がIBのあり方や、これからの日本の教育について述べられています。
日本がこれからIBを本格的に導入していくにあたって、
大迫先生は「ゆとり教育」や「偏差値教育」について触れられています。
それぞれの教育には時代背景があり、目指すものがあり、それゆえに構築されたものがある。
だけど、どんな教育にもうまくいかないことがある。
今日はその中からの引用。
さて、このように書き進めていくと、私が「偏差値教育」を一方的に断罪しようとしていると思われるかもしれませんが、決してそのようなつもりはありません。(中略)そのような世界を、子どもたちの、先生方の、家族の、それぞれの必死だった気持ちを、否定することはありえないと思います。/しかしそれは、そういう時代があった、ということなのです。

この部分を読んだ時、これを書かれた大迫先生がとても懐の広い人のように思えました。
「受け止める」という姿勢が、きっと生徒へだけでなく教育そのものへも、
しっかり向けられている先生なのかもしれない。


私はがっつり「ゆとり教育」を受けてきました。
「総合的な学習の時間」に、課外授業へあちこち行きました。
「きっとゆとりは失敗する」と、改定前の内容を教えてくれる先生もいました。
今思い返せば。
文科省が意図していたことがやはり、あまり通じていなかった点があったのかもしれません。

高校生になった頃だったか。
親、教員を含む周りの大人から、
「これだから『ゆとり』は」的な発言を耳にするようになりました。
『ゆとり』は『ダメ』なんだ、と思いました。
『ゆとり』を『ダメ』にしたのは、お前ら大人じゃねーかと反発したこともありました。

今でも、30代以上の大人の皆様から、
「ゆとり世代なの!?」と言われて傷つくことがあります。苛立ちも覚えます。
それは私自身も自分の受けてきた教育をネガティブに捉えている証拠ですし、
否定的な立場にいるからだと思います。



だけど、大迫先生の文章を読んで「ちょっと待って」と思いました。


もしかしたら『ゆとり』と呼ばれる私たちだって捨てたもんじゃない存在だと言えるかもしれません。
失敗失敗といわれても、こうして生きてて、社会生活をしていて、何かしらの貢献をしている。
そんな自分たち世代が、大人になって「教育」について真剣に考えてる。

私たちも、ちゃんと教育されて来てるんです。
個の能力について考えることと、社会的評価について考えることとはちょっと違って、
社会的には失敗と呼ばれたかもしれないけど、私たちは「失敗作」ではない。
そこをまずしっかり区別しておきたいな、と思うのです。
その上で、ある教育目標に向けて色々な人が、色々な努力を必死にしてきた、
その事実を「受け止める」ことが、今後の教育について考える上で非常に重要なのではないかなと思いました。


「ゆとり教育」はよくない。
「偏差値偏重主義」はよくない。
と、良い悪いの二者択一をしているだけでは、教育は変えられない。
批判的思考がここにも必要とされているんだな、という実感がありました。


IBの教育理念や、目指す学生像、教師の役割について読んでいると、
本当に胸が熱くなって、わくわくするような、ドキドキするような、
설레다が一番しっくりくるんだけど、初恋の人に会った時のような気持ちになります。
(「ときめき」という訳はキラキラしすぎて合わないので使いませんが。)


それはきっと、何かを否定するために生まれてきた教育ではないからなのだと思います。

興味関心―なんでもないけど、大切なこと

研究をするのに色々な文献を読んだり、
教育に携わるために色々な経験をしたり。
そうこうしているうちに、自分の興味関心がどこにあったのかを見失うことがあります。


今の今まで、私は「見失っていないつもり」だったのですが、
どうやら違ったようなのでメモ。




問題提起を書くために、
協働学習からの引用だけでなく、IB関連の本からの引用も何かあったはず、と
本を読み返していたところでした。

久々に読み返してみると面白くて、つい読み込んでしまったのですが、
その中に、『グローバル人材育成推進会議』での「グローバル人材」の定義が引用されていました。
要素Ⅰ:語学力・コミュニケーション能力
要素Ⅱ:主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感
要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー

このほかに、幅広い教頭と深い専門性、課題発見・解決能力、チームワークとリーダーシップ、公共性・倫理観、メディアリテラシーなどを挙げています。
大迫弘和編(2014)『国際バカロレアを知るために』(第2章:p.64)
ここで、第2章の執筆者である新井氏はこうコメントしている。
よく見ると、これは要素Ⅰの語学力を除いては、国内外を問わず必要な資質・能力で、グローバル人材に限りません。要素Ⅱは誰にでも求められますし、要素Ⅲも教養や倫理観と関係します。/したがって、語学力はグローバル人材であるかないかを分ける能力といっても過言ではありません。
これを読んだ時に、自分の関心があるのは「要素Ⅱ以降」だということがはっきりしました。
言語や文化にとらわれず、必要となる能力がこれからの教育には必要だと思ってて、
前提として、言語や文化が異なる人たちが同じ教室にいることを想定していたため、
どうしても言語の問題を切り離さずに考える必要があった、というだけの話。
「日本語教育」とか「国語教育」とか、分けて考えていたせいで、
『私は「日本語教育」専攻なんだから、言語習得や異文化理解に関わることをしなくちゃ!』
なんて、勝手に興味関心の幅を狭めていたような気がします。


この記事で書きたかったのは、ただそれだけのことなんですけど。
「私、私の関心を思い出したわ!」って、それだけのことなんですけど。

自分がずっと「読書」と「日本語教育」を結びつけた活動にこだわっていたのは、
言葉を教えたいからというだけではなかったんだということだと思います。
あくまで言葉は活動をするために必要なもので、
やり方次第でいくらでも学習を進めたり、要素Ⅱ以降を伸ばしたりすることができるんだと、
最近は思えるようになってきました。
じゃあどうすりゃいいのよ?って、そこを何十年もかけて明らかにしていくために、
まずは修論でやろうとしているんだと。


そう考えると、私がこれから相手にする対象は「中上級以上」になってしまいそうだけど、
必ずしも「中上級以上」じゃないと認知的な活動ができない、なんてことはないということもわかってきたし。
そのために、やっぱり初級指導の勉強ってのも必要だなぁ、と。
ボランティア、研究、バイトでの講師活動、などなど、
今まで自分がやってきたことがどれも乖離しているように感じていたけど、
意外とそうでもなかったな、と思えてほっとしてます←


もっと何かできることがあるんじゃないかな、なんて
そんな風に思える興味関心を持ち続けられていて、本当によかったなと思います。


なんかほのぼのしてしまいましたが、
続き、頑張ってきます←