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The flower that blooms in adversity is the rarest and most beautiful of all.

教育者としての心構え

子どもに向かう心構えではなく、
今回は「一教育者」という大前提としての心構えについて思ったこと。

機能のIBの本の続きです。
第4章では編者である大迫先生がIBのあり方や、これからの日本の教育について述べられています。
日本がこれからIBを本格的に導入していくにあたって、
大迫先生は「ゆとり教育」や「偏差値教育」について触れられています。
それぞれの教育には時代背景があり、目指すものがあり、それゆえに構築されたものがある。
だけど、どんな教育にもうまくいかないことがある。
今日はその中からの引用。
さて、このように書き進めていくと、私が「偏差値教育」を一方的に断罪しようとしていると思われるかもしれませんが、決してそのようなつもりはありません。(中略)そのような世界を、子どもたちの、先生方の、家族の、それぞれの必死だった気持ちを、否定することはありえないと思います。/しかしそれは、そういう時代があった、ということなのです。

この部分を読んだ時、これを書かれた大迫先生がとても懐の広い人のように思えました。
「受け止める」という姿勢が、きっと生徒へだけでなく教育そのものへも、
しっかり向けられている先生なのかもしれない。


私はがっつり「ゆとり教育」を受けてきました。
「総合的な学習の時間」に、課外授業へあちこち行きました。
「きっとゆとりは失敗する」と、改定前の内容を教えてくれる先生もいました。
今思い返せば。
文科省が意図していたことがやはり、あまり通じていなかった点があったのかもしれません。

高校生になった頃だったか。
親、教員を含む周りの大人から、
「これだから『ゆとり』は」的な発言を耳にするようになりました。
『ゆとり』は『ダメ』なんだ、と思いました。
『ゆとり』を『ダメ』にしたのは、お前ら大人じゃねーかと反発したこともありました。

今でも、30代以上の大人の皆様から、
「ゆとり世代なの!?」と言われて傷つくことがあります。苛立ちも覚えます。
それは私自身も自分の受けてきた教育をネガティブに捉えている証拠ですし、
否定的な立場にいるからだと思います。



だけど、大迫先生の文章を読んで「ちょっと待って」と思いました。


もしかしたら『ゆとり』と呼ばれる私たちだって捨てたもんじゃない存在だと言えるかもしれません。
失敗失敗といわれても、こうして生きてて、社会生活をしていて、何かしらの貢献をしている。
そんな自分たち世代が、大人になって「教育」について真剣に考えてる。

私たちも、ちゃんと教育されて来てるんです。
個の能力について考えることと、社会的評価について考えることとはちょっと違って、
社会的には失敗と呼ばれたかもしれないけど、私たちは「失敗作」ではない。
そこをまずしっかり区別しておきたいな、と思うのです。
その上で、ある教育目標に向けて色々な人が、色々な努力を必死にしてきた、
その事実を「受け止める」ことが、今後の教育について考える上で非常に重要なのではないかなと思いました。


「ゆとり教育」はよくない。
「偏差値偏重主義」はよくない。
と、良い悪いの二者択一をしているだけでは、教育は変えられない。
批判的思考がここにも必要とされているんだな、という実感がありました。


IBの教育理念や、目指す学生像、教師の役割について読んでいると、
本当に胸が熱くなって、わくわくするような、ドキドキするような、
설레다が一番しっくりくるんだけど、初恋の人に会った時のような気持ちになります。
(「ときめき」という訳はキラキラしすぎて合わないので使いませんが。)


それはきっと、何かを否定するために生まれてきた教育ではないからなのだと思います。

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