授業設計の基礎についての参考本の話 書籍 2016年08月31日 久々に、基礎基本の勉強をしています。といっても、3色ボールペン法(by明治大学の斎藤先生)でササッと本に目を通してるだけですが…今の悩みは、「授業計画立てるの超苦手」!!!!!!ってやつです。私の長所はアドリブ力があるというか、臨機応変な対応が得意なことなんですが、その分、計画性が弱くて・・・直前にならないと計画が立てられないんです。(創意工夫が昔から苦手という難点もありますが、それは次回の課題にします)で、ずっと学生時代から読んでみたかったこちらの本を読むことにしました。稲垣忠・鈴木克明(2015)「授業設計マニュアルver.2―教師のためのインストラクショナルデザイン―」 つづきはこちら PR
国語が変わるの話。 書籍 2016年04月30日 久々に書籍の話です\(^o^)/しかも、久々のスマホからの投稿!!笑今日の本はこちら。出口汪『国語が変わる―答えは「探す」から「創る」へ わが子の学力を伸ばす方法』彼とのデート中にジャケ買いした本のひとつです(笑)さすが、私が高校生の時から既にカリスマ講師だった出口先生。読者を引き込むストラテジーが確立している!笑読むのが激遅の私がサラ―っと読んで、コメントもつけて、読破するのに1時間はしなかったかな?まぁ、私の専門分野だったってこともある。国語の指導の具体的な話は本当に参考になりました。特に、漢字指導の話。ただ書かせて、意味はさておき形ばかりを気にして、宿題との目的の差別化ができない自分の授業に疑問を感じていたので、授業ですれば良いことのヒントを得ることができました。それから、子どもたちは大人が思っている以上に時間感覚がないという指摘。これ、まさにこの前先輩の先生とカフェでおしゃべりしたのと全く同じ言葉が書いてあったんです。「てっきり今日のことだと聞いていると、実は随分前に起こった出来事だったということがよくあります。」(p.136)だから、子どもには「いつ?」「どこで?」「だれが?」「なんで?」「どんなふうに?」と細かく聞くことが必要なんです。大人が理解するためにも、子どもが伝え方を知るためにも。この本、先輩と共有したいと思いました。メモをボロクソ書いてしまったけど(笑)と、言いますのは、この本の短所がやっぱりあるからなんですね。冒頭の「21世紀型学習」の説明が乱暴すぎるんです。本書の説明では、なんの専門性もない人が読んだら『暗記は悪だ!!暗記させる教師はいかん!!』という、安易な流れに行きやすくなるような、あるいはそれを扇動するかのような説明になってるんですね。私の大好きな批判的思考や言語技術の分野では、確かに、memolizeが重要なのではなく、thinkingすることが重要であることが言われています。thinkingしたことを、いかに人に伝えるかということも含めてです。でもそれは、memolizeを軽視しているわけではないことを忘れては行けません。21世紀型の学習では「memolizeのその先を目標にしている」ということを理解しなければならないのです。わかりやすいのは、言語です。言葉は知らなければ使うことも、概念も得ることもできません。出口先生も書いてましたが、人は言語ありきで思考しているのです。だから、言葉を知らずに、覚えずに、使うことはそもそもできないのです。覚えることは手段であり、目的ではない。その先の教育が求められている、ということをもっと全面に出してほしかったと思います。ただ、本書を読み進めていくと、そのことがちゃんと書かれているんですね。しかも、その覚え方を工夫すべきだという面白いことがかかれているのですが、冒頭がちょっと過激だった。短くわかりやすく伝えようとしたせいで、かえって論理が崩壊しているような文章になってしまった。そんな印象です。ボリュームも程よいし、言葉も柔らかい。漫画も挟まってて面白く読めるので、参考程度に読むには十分だと思います。
夢野久作熱再び 書籍 2015年05月13日 久しぶりに、学部時代のお友達と文学の話をしました。嘘です。『文豪ストレイドックス』というコミックの話です←私は高校時代から夢野久作が大好きで、第6巻から登場することが明らかになったので読みたいいいいい!という話でした、はい。そんなわけで、夢野久作熱が再燃して「好き好き」って言いたくなったので時間を惜しまず語ります。99%思い出話ですし、自己満足な自己分析になりますので、以降の閲覧は自己責任でお願いいたします。 つづきはこちら
議論の技法-トゥールミン理論の原点(第1章) 書籍 2015年04月17日 <問題提起>種々様々になりつつある「議論のすべてが度の程度同じ手続きで評価できるのだろうか。つまり、度の程度同じ種類の語によって、同じ種類の基準に訴えることによって評価できるのだろうか。」<用語>議論の場同一に事柄について話をしていても、ものの見方や考え方の根本が異なる場合、その話が交わることはない。同じステージで話をしていないことになるから。この状態を、「議論の場が異なる」という。場不変的場依存的「何がその場のいかんにかかわらず同じ(場不変的)であるのか。また何が、ある議論の場から異なる議論の場へ移った時に変化する(場依存的)のか。」この章で、トゥールミンは「異なる場にある議論を批評するのに、どのていど共通の基準が使えるか」ということに焦点を置いており、批評する際の基準をいかに厳密に比べるかということを議論したいのではない、と述べている。<引用>「議論の批評と評価に関する規範はすべて、実質的に場依存的であり、一方、評価語のすべてはその力の点で場不変的である、と結論付けることにする。」法的手続きにおいて「論理的評価は形式的手続(太字)を必然的に伴う行為である」とし、議論のレイアウトについて述べる際に問うべき問題について触れている。<第1章で残された課題>「異なる場で私たちが採用している基準の違いはなくせないのか」「どの程度まで一般的な論理は可能であるのか」→議論の形式と批評で参照する基準が場不変的であるように議論し、批判することはできるのか哲学的な研究者が求める議論には、議論に普遍的な形式があることを発券し、議論の評価のために普遍的な判断基準を構築すると言う野望がある。