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日本語教育と状況的学習論

海外日本語教育実習に行きたい!という方へ。

巷にはなんだか小難しい論文がたくさんあって、何から読んでいいかわからない!
そんな方はこちらをどうぞ。

西口光一「日本語教育と状況的学習論」

Scarcella & Oxford (1992)は引用部分だけ見るとtranslanguagingにも関わりのある言及だと思う。
引用に見覚えあるから、どこで引かれてたのか思い出さなきゃ…
原文見てみなきゃあ。
英語論文……ああ…もう…お腹いっぱい(笑)


電車のなかでの良い時間潰しになりました。

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道徳の教科化

書籍というか、新聞記事ですけど・・・

読売新聞2015年2月5日(木)



まず、「へえ~!道徳ってそもそも『教科』じゃなかったんだ!」という・・・
(おいこら、教職課程履修者←)

まあ、今回考えたのはそこではなくて・・・


大きい記事の方の20代の先生の実践は、とても興味深いなと。
まさに「クリティカル・シンキング」じゃないですか。
○か×かでは測れないことって世の中にはたくさんあって、
その中で自分の答えを見つけて、それを自分なりの根拠を持って説明できる。
その力をもっとつけていく必要があるのでとてもいいと思いました。
(「模範解答」に対する不安もわからなくもありませんが…)


ただ。


ピアリーディング入門…中...その1

勉強しながらブログ書くなんて、「けしからんやつだ!」
とは思うのですが、これも一種のthink-aloudということで許してくれやんでしょうか。

学校から借りてきた『ピア・ラーニング入門―創造的な学びのデザインのために―』というのを読んでます。
著者はうちの卒業生の池田玲子先生と、早稲田の舘岡洋子先生。
舘岡先生がリーディングの研究されてたとか。
今までどれだけ無意識に論文集めてたか、ってのを痛感しました。
舘岡(19××)とか、超よく見るなぁって思ってたのに、どうしてピンとこなかったのかしら←
反省です。


んで、今は第1章「協働とは」を読んでます。

著者の池田は、日本語教育の「協働」の3要素として、
「対話」「対等」「創造」を挙げている。
モデル図はとっても理解しやすく、
学習者Aと学習者bの学びのプロセスが最終的に「創造」の形として合体されるってのは
とてもわかりやすいし理想的だなぁと感じた。


・1.4では学校教育と協働について書かれているんだけど、
1.4.2の学校教育の協働学習では
なんだか学校教育の方針が気に入らん...という私の不満に答えてくれてるような気がします。
単純に気に入らないんじゃないです。
つまらない授業、興味ない勉強、なんだかわからないけど押し付けられてる「できる子」目標。
私は自分がまじめであったがために、とてもこの方針に順応しやすく、
また人一倍反発したかったか、よく覚えています。


・アイデンティティの問題がよく言われますが、
小学校中学年から中学校、高校1年生くらいまでの私は、
自分のための自分ではなかったと思います。
誰のために「良い子」「できる子」にならなきゃいけないのか、私は誰のために生きてるのか、
そんなことばかり毎日考えてました。
口では「自分の将来のため」とか言いながら、本当にそうなのかいつも疑問でした。
そしていつもその答えは、「お母さん」「学校の先生」でした。

「お母さん」ってのは、うちの母親が自分が思っていた以上に教育熱心で、
自分の理想ってのがしっかりしてたから、
娘であり長女である私にそれを一生懸命伝えようとしていた、
という好意的な解釈をすることもできました。
でも「学校の先生」って???「学校の先生」によく見られなきゃいけないのはどうして??

きっと、私の中で教師が絶対的存在だったんでしょう。
反発もしましたが、先生は私の「マスター」であって、「指導者」でありました。
だから、同じ「先生」でも公文の先生と学校の先生との距離は絶対的に違いました。
集団授業の中で黒板の前に立ち、偉そうに(当時は見えた)授業を進める姿。
先生がダメといったことは絶対のような雰囲気。
いつも付きまとう「正しい」と「間違い」の影。
「正しい」影をたくさん集めると、人よりも褒められる。
そして目に見えて点数が上がっていき、より良い学校へ入れる切符を与えられる。
「間違い」にまみれると「落ちこぼれ」と呼ばれ、
「勝ち組」の道から引きずりおろされる。
それがすべてだと思ってました。
私は中学校と高校でこの両方を味わいました。

この競争の背景にはいつも、「教師に教えられたものに正しく答えること」があって、
そこから「暗記が苦手」「覚えられない」「わからない」と苦しむことになったと考えられます。
私がその白か黒かの世界に疑問を持ち始めたのは、
高校2年の現代文で芥川龍之介「藪の中」の授業を受けたときでした。
(以下略)

社会で生きていくためには「勝ち組」にならなければならない。
競争の勝ち負けを決めるには点数が必要。
自分がもし教師になるなら点数や評価をつけなきゃいけないわけで、
その客観的指標のひとつとして「数字」が必要ってことぐらいしか、
点数をつける納得のいく理由がみつからなかったのですが・・・。


・今、いろいろな背景をもつ子どもたちと関わってきて、
「社会で生きるためには「勝ち組」にならなければならない」
という固定観念の恐ろしさを知りました。
競争が全面的に悪いわけじゃないけど、
人々にはいろいろな生き方があって、いろいろな価値観があるということがわかったいま、
「協働」による学習の大切さを感じます。


・先生方が受験戦争を勝ち抜いてきた人→協働より競争を支持する、という流れも、
まあそれはそれで仕方ないことだなと思いますね。
(だから保護者の言いたいことが理解できないし受け入れられなかったりするのかもしれないけど)

・「従来のような教師による知識伝達」から「学習主体の他者との社会的相互交流」が日本語教育を考えるうえで大事なんだってさ。
これって、UNSWの学習理念ととても重なる部分があるね。
でも、協働の考え方には実はいつも「対教師」があるのかな。
「学習主体の他者」の中に「教師」は含まれていないのかな。
UNSWのZPDをもとにした学習理念には、教師も含まれているけど、
教師も「ともに学習する存在」に位置付けられてる。
また時に教師も、学習主体も、ほかの学習者(他者)も、みんなが教える立場になることもある。
この考え方は結構私は気に入ってて、日本では応用できない理念なのかしらと疑問に思ってます。
地域・社会に受け入れられなくても、学習者に受け入れられたら、
とてもいい勉強法だと思わない?ま、実践はこれからだから今のところ理想だけだけどね。



1章おわりー

お母さんそろそろ帰ってくるし、おうちに帰ろうかな。
@秦野市立図書館
        
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