道徳の教科化 書籍 2015年02月08日 書籍というか、新聞記事ですけど・・・読売新聞2015年2月5日(木)まず、「へえ~!道徳ってそもそも『教科』じゃなかったんだ!」という・・・(おいこら、教職課程履修者←)まあ、今回考えたのはそこではなくて・・・大きい記事の方の20代の先生の実践は、とても興味深いなと。まさに「クリティカル・シンキング」じゃないですか。○か×かでは測れないことって世の中にはたくさんあって、その中で自分の答えを見つけて、それを自分なりの根拠を持って説明できる。その力をもっとつけていく必要があるのでとてもいいと思いました。(「模範解答」に対する不安もわからなくもありませんが…)ただ。 なぜ、それを「道徳」でやるのか。なぜ言葉をもって活動をする「国語」ではないのか。という点は未だに腑に落ちません。「道徳」と「国語」は同じような活動になりがちだから、その区別を自分なりにして活動を組み立てなければならないと教職課程を取っている時に聞いてきたのですが・・・私はどうも納得ができんのです。例えば、社会で生きていくためのものの道理とか批判的思考とかを伸ばす活動を「道徳」でやっていくのなら、「国語」はもっと言語的な部分に注目するとか、そういうことになりますよね。読む・書く・話す・聞くの4技能が統合されているとは決して言えない国語科の授業の実情を考えれば、もっと抽象的に「小説を楽しむ」とか「古典文学を読めるようになる」とか、それこそ『なんのために!?』って言われてしまう授業から脱することはできないんです。それでは、ことばと社会が繋がっていない、とか教室内で学んだことが教室外での生活にいかされない、とか日本語教育では耳にたこができるくらいよく聞く批判から脱することはできないんです。いや、批判から脱することが目的なんではなくて、学校での活動や教育に意義を見いだせない日本人が量産されてしまうことが、私は気がかりでならないんです。だったら、私は「道徳」でやろうとしていることと「国語」でやろうとしていることを、一緒にやるべきだと思うんですよね。どうでしょうか、もう既に、先生方はそうやって活動されているんではないでしょうか。ことばと社会は繋がっているのだから、もし子供たちに「社会に出て、世界に出て、立派な大人になってほしい」と思うなら、言語的な指導とものを考える指導を別々にすべきではないと思います。全て、一連の流れで繋がっているんですから。なーーーーんて!自分がそんな風に考えてこなかったら、今とても苦労しているわけです。せめて、将来自分が受け持つ学生たちが「ものを考えられる大人」になってくれるように、私も引き出しをたくさん準備していきたいです。 PR